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宮崎家庭裁判所 昭和51年(家)79号 審判 1976年8月02日

申立人 入江茂康(仮名)

主文

本件申立を却下する。

理由

本件申立の趣旨ならびに実情の要旨は、申立人は被相続人の特別縁故者であるから、申立人に対し被相続人の相続財産である別紙記載の田地二筆を分与されたいというのである。

そこで関係各記録(昭和五一年(家)第七九号、昭和四九年(家)第四五二号、昭和五〇年(家)第四四五号各事件記録)を精査、検討すると、つぎのような事実が認められる。すなわち被相続人の河原カズノは昭和一〇年三月二九日に死亡し、その死後には相続財産として本件の別紙田地二筆が遺されていた。被相続人には直系卑属も、兄弟姉妹もなく、両親も当時既に他界していた。すなわち河原家の戸主であつた同女には法定の推定家督相続人も、指定された家督相続人もなく、また家督相続人に選定することのできる家族も、法定の家督相続人となるべき直系尊属もなくして、同女は死亡している。そして右相続財産について旧民法で規定する相続人曠欠の手続がなされることなくして過ごすうち、日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律、ついで新民法が施行され、つづいて申立人からの今次各申立(昭和四九年(家)第四五二号事件、昭和四九年七月二〇日受理。昭和五〇年(家)第四四五号事件、昭和五〇年七月九日受理。)があつて、その申立に基づいて法所定の相続財産管理人選任、ついで相続人捜索の各公告がなされたが、相続人も、また相続債権者も現われてこなかつた。以上の事実が認められる。

ところで申立人は前記のように自己が被相続人の特別縁故者であると主張するので、案ずるに、前記記録によると、つぎのような事実が認められる。

1  被相続人は河原松市(弘化四年生)、同カル(嘉永元年生)間の長女で、他に兄弟姉妹がなく、いわば河原家の一人娘であつた。そしていつの頃かは判然としないが、被相続人の母カル(明治二六年一二月九日死亡)が死亡してから、被相続人は父親の松市をつれて入江義朝(安政六年九月二日生)宅にゆき、爾来宮崎県○○郡××町大字△△○○○○番地の同人宅において同人と同居するようになつた。(被相続人の居宅は同町大字△△○○○○番地にあつたようであるが、その居宅をどのように整理して入江家に移り住むようになつたのかは不明)入江家には母屋と隠居家とがあつて、いずれも同じ屋敷内に建てられていた。そして松市存命中は松市が隠居家に居住し、被相続人と義朝とは母屋に居住して、松市の面倒をみていた。河原家の戸主松市が昭和二年八月一一日に死亡してからは被相続人と義朝とが隠居家に移り住むようになり、被相続人が河原家の家督を相続した。右のようにして同居している間、義朝は田四反、畑一町歩位を耕作し、被相続人もその手伝い等をしていたもようであつて、両者は内縁の関係にあつたものと思われる。

2  義朝には子供がなかつた(申立人は被相続人が三人目の女性であるといつているが、公簿上これを確認することができない)ので、早くから茂喜(明治一三年九月一〇日生)を養子として迎えた。茂喜は小学校の先生をしていたので、若い時分から各地を転々し、五〇歳になつた頃(昭和の初め頃)家族らと共に養家にもどつて、義朝、被相続人らと同居するようになつた。その後昭和五年一〇月一〇日入江家の戸主義朝が隠居したので、茂喜が入江家の家督を相続した。このようにして数年位同居している間に、被相続人が昭和一〇年三月二九日に死亡し、ついで茂喜が昭和一六年一〇月一四日に、義朝が昭和一九年六月八日にそれぞれ死亡した。

3  申立人茂康は茂喜とその妻サチ(昭和二六年死亡)間の三男として出生し、父茂喜の転勤にともなつて各地を転々した。そして申立人は昭和八年頃(一八歳の頃)養家近在の○○中学校を卒業したのち、進学のため鹿児島市内の予備校にいつて二年間位勉強したが、健康を害したため、養家にもどつて一年間位静養した。その後上京して昭和一二年一一月頃××省××局に就職して勤務するかたわら、私立大学校に通つて勉学にいそしんだ。(申立人はその後も××省の役人として終始し、各地を転々したのち、宮崎○○事務所勤務を最後に昭和四九年六月三〇日退官した。)被相続人が死亡したのは前記のように昭和一〇年三月二九日であるから、申立人はちようどその頃中学校を卒業して進学のため浪人生活をしていたことになる。

以上認定の事実によると、義朝と被相続人とは内縁の夫婦として生活を共にしていたことになるのであるから、義朝が民法九五八条の三にいう「被相続人と生計を同じくしていた者」にあたるということのできることは疑う余地がない。また茂喜は義朝の養子として義朝、被相続人カズノ夫婦と同じ屋敷内で同居していたのであるから、たとえ義朝が隠居してかまどをわけていたという事実があつても、その同居生活の実態のいかんによつては、茂喜も義朝同様、少くとも退職後に同居生活を始めた以降の時期においては、「被相続人と生計を同じくしていた」ということができる場合のありうることは否むことができない。しかし申立人茂康の場合には必ずしもそのようにたやすくいうわけにはゆかない。すなわち申立人は被相続人カズノの養子となるべきことが予定されていたというわけではなく、ただ養祖父の義朝がそのカズノと内縁の関係にあつたということから同じ屋敷内で同女と生活を共にすることを余儀なくされたものであり、而も同居といつても中学の高学年に在学中ないしは親がかりで進学準備中の一時期を同女と過ごしたというものであり、換言すれば実親の茂善、養祖父の義朝を介して間接的ないし結果的に同女と生活上の関係をもつていたというにすぎないのであるから、生計の同一という点からいえば、申立人と被相続人との関係は義朝ないし茂喜と被相続人とのそれよりもその関係が一段とうすいといわなければならない。従つて申立人と被相続人とのこのような関係をも前記法条にいう「生計を同じくしていた」ということの中に含ましめることができると考えることについては疑問があり、仮にそのように考えることができるとしても、後述のように前記内縁関係の実態に不分明な部分が存することなどを考慮に入れると、少くとも同法条にいう相続財産分与の「相当性」を認めることは相当でないといわなければならない。

そして前記記録によると、被相続人は老衰により格別の療養、看護を要することなく、付添つていた者でさえ気づかないうちに死亡したものであつて、申立人がその療養、看護につくした事実がなかつたことが認められるのであるから、申立人を目して前記法条にいう「被相続人の療養看護に努めた者」ということのできないこともまた明らかである。

ただ前記のとおり被相続人と義朝とは内縁の関係にあり、その義朝と申立人とは養祖父養孫の関係にあつて、申立人と被相続人との間に「縁故」が存すること自体はこれを否定することができないのであるから、その「縁故」関係の濃淡の度合を調査して、申立人が前記法条にいう「その他被相続人と特別の縁故があつた者」に該当するのか否かの検討をする必要がある。

しかし、右の点については、記録ことに登記簿謄本を調査すると、被相続人所有名義の本件の別紙田地二筆のそれぞれについて株式会社○○○○銀行の貸付金九〇〇円(大正三年二月二七日貸付)を担保するために一番抵当権が設定され、また○○町の小川勘一郎の貸付金四〇〇円(大正一一年四月一二日貸付)を担保するために二番抵当権が設定されていたが、そのうち一番抵当権については昭和九年一二月三日弁済を理由に昭和一〇年三月一五日受付をもつてこれが抹消の登記がなされ、また二番抵当権については大正一三年一月二一日弁済を理由に同年三月五日受付をもつて同様抹消登記が経由されていることが認められる。

そして右認定の事実に基づいて検討すると、右各金員の貸付が行なわれた大正三年ないし大正一一年といえば、被相続人の父松市がまだ健在であつた頃(その頃松市が義朝方隠居家に移り住んでいたかどうかは不明)で、その時期に当時としては大金と思われる九〇〇円ないし四〇〇円という金員が動いていたことになるので、それだけの経済力のある松市が如何なる理由で先祖伝来の家、屋敷を処分するまでして他人の隠居家に移り住んでいたのかないしは移り住むようになつたのか、その辺の経緯ないし事情その他そのような大金を必要とした理由ないしはその金員の使途などは本件の適正な処理をするうえにおいて是非とも知りたいことである。而も前記のとおり一番抵当権の抹消登記申請は被相続人死亡の約二週間前に行なわれている。すなわち被相続人は死亡の直前まで前記田地が自己の所有財産として残存していることの認識をもつており、決して放置していたわけのものではないことが窺われるのであるから、若し被相続人がこの財産を入江家に遺したいと思つていたのであれば、その抹消登記をした機会にその所有名義を変更するなどの措置をとることをしないまでも、少くともその趣旨のことを口外していた筈であると思われるので、そのような事実の存否についてもこれを確認しておきたいところである。また前記のとおり一番抵当権の被担保債権については被相続人死亡の約三か月前に弁済がなされている。すなわち被相続人は既に父親の松市を喪つていたのにもかかわらず、当時相当の大金をもつていたことになるので、その弁済金の出所その他弁済の経緯、事情についてもこれを明らかにする必要がある。そしてこれらの点を解明することによつて始めて被相続人と義朝夫婦間の内縁関係の実態、とりわけその財産関係が両名間においていかように規律されていたかの実態を明らかにすることができ、ひいては両名間の「縁故」関係の密度、さらには申立人と被相続人との「縁故」関係の濃淡の度合までこれを明らかにすることができることとなる。

しかしながら、今となつてはこれらの諸点を解明することができない。申立人を促して関係人らにあたつてもらつたが、調査の手がかりさえつかむことができなかつた。当裁判所は被相続人が入江家のためを思つていたことを疑うわけではないが、前記のような疑点を残しながら、申立人に対し、換言すれば単に内夫の義朝と身分関係があるというだけで「縁故」が認められるといつても過言ではないと思われる申立人に対し、被相続人の相続財産を分与してしまうということにはちゆうちよを感ぜざるをえない。いやしくも国家機関が私人の財産を処分する以上、その処分に必要な法律上の要件については十分な証明をうることが必要であり、事案が昔時に遡るからという理由で、これを緩めるようなことがあつてはならないことはいうまでもないことである。以上のような次第で、申立人と被相続人との間に「縁故」関係があつたことはこれを認めることができるけれども、その「縁故」関係が前記法条にいう「特別の」ものであつたということまでの証明はついにこれをうることができない。

もつとも、申立人茂康の場合には、前記のように身分関係を介して被相続人と「縁故」関係があつたという事実のほかに、記録によると、申立人は亡親茂喜に引き続いて被相続人のために祭祀を怠ることなく、また昭和二八年頃には入江家の墓地内に被相続人の石碑を建立してやつたという事実があることが認められる。

しかしながら、前記法条にいわゆる「縁故」というのは、あくまでも被相続人の生前における縁故のことを指称し、死后において生じた縁故を意味するものではないと解すべきであるから、被相続人の死后において申立人が前記のようなことを行なつたとしても、そのことの故に直ちに法にいわゆる「縁故」関係があつたというわけにはゆかないのであつて、そのことは被相続人の存命中における縁故関係の存在ないし濃度のいかんを推認せしめる一つの資料となりうるにとどまるのであるから、本件の事案において前記のようなことを行なつたという事実があつても、被相続人の生前における「縁故」関係が「特別の」ものであつたとまではいい切れないという前記の判断をかえる必要はごうも認められない。

その他関係記録を子細に調査、検討してみても、申立人が被相続人の特別縁故者に該当することを認めしめるに足りる資料を見出すことができない。

よつて、本件申立は理由がないので、これを却下することとして、主文のとおり審判する。

(家事審判官 中久喜俊世)

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